昭和47年10月06日 夜の御理解
午後から梅里先生が見えまして石庭の。予定よりも広くなった。ですから配石が狭い所の間隔でしてあったんですね。一番こちらの手前の大きな石二つだけを、移動させなければならない。移動させる事は簡単な事でしたけれど下にきの排水があった。大きなコンクリで固めて中に水が一杯溜まってる。その上に泥がこうやって入れてあった。だからそれを壊さなきゃならない。その事が大変配石の事はもう先生こう吊り上げといてからそこだそれで良いと、それだけで決ってしまう程しに素晴らしい事ですけどね。
ちょうど、私が、そこで、先生にお茶どもあげながら、お茶をすすりながら、庭師さんたちがやってるのを見せて頂くために、来ておりましたら。柱を塗装屋さんが参っておりまして、今日またそれを塗り替えやってる訳です。それで三回目ですか。もう本当に私たちから見たら、見事に出来てるんです。私はこのままでいいと思うんです。それでも約束と違うからと言うので、またどこ言うても出来ないというのを、また元の塗装屋さんがやる事になったらしいです。
そこの中心になる人が、やっていて、私が通りかかったら、大ごとのち言うたら、先生泣こうごたるち言うてから笑いよった。そるけん私はあんたも泣こうごたるばってん、私も泣こうごたるよ、これだけ勿体無いことをね、何べんも何べんも繰りかえさなならん。三和工業もそうだろうけれども、実際に仕事をするあんたもそうまたしてもらう私も、本当に泣こうごたるて。何べんも何べんも勿体ない、しかもこんなに立派に出来ておるのを、また剥いだり落としたりしてまた別な色を塗って。
そしてまたそれに塗らにゃならんと言うことはと言うてから、今お茶頂きよるから、あんたも一緒お茶頂きなさいと言うて、仕事止めさせて、お茶を頂きながら、話したことでしたけれどね。とにかく今梅里先生も庭を、たった石をちょっと何寸かこちらへやるだけの事に、是だけ一生懸命になっておられると言う事はね、ここが何時何時までも残るということ。この庭は梅里が造ったと言う事の為にはね。
やっぱりそれがなされなければならない。ほんならあんた達の場合でも、教会のこれが、何時何時までも残って、どこの塗装屋がこれはやったんだと。より美しいもの、より麗しいものとして、この教会に相応しい良いものが出来るということだからね、あんたも泣こうごたろうけれども、本当言うたら、してもらう私も泣こうごたる、これだけのことを、またやり直してもらわなならんから。
けれどもそこからねより良いもの、より美しいもの麗しいものを作るという気になったら、どうじゃろうかねって言うたらえらぁい感動しましてね。ほんな事ですねち言うてから、また仕事にかかったんですけれども。今博道君が言っているのも、そう言う事じゃないかと思うですね。自分が一つこの仕事だけは、自分がやり上げるぞと言うて、始めした時の意気というのは素晴らしい。そういう意気込みというものは、誰もそれを侵す事が出来ないというのが、今朝の御理解だったんですよね。
それが自由だとまぁ言うならば、喜代司さんは言ったわけです。本気でやろうというその心を、妨げる何ものもないだろう。けれども言われてやると言う事は、こりゃな難しいこと。いやむしろ反発を感じるのだ。いやそれはまさしく職人さんなんかは、折角精魂を傾けてやったものをまた口上言われ、またやり直さなならんと言うたら、やる気がなくなってしまう。それでも矢張りやらなければならない。矢張りお金をそれだけ余分に、又貰う事でもあるのですから、本当にやる気になれそうなもんだけれど、それこそ先生泣こうごたるとこう言う。
けれども本当により良いものを、より麗しいものを作るとじゃけんのと言う事になった時です。「ほんなこってすね、先生。」と言うて感動を私が向こうの感動を、こちらの感動に受け止めさせて頂いたんですけれども。言われてそれをやろうという気になると言うことはね。矢張り今日の朝の御理解で言うと、お徳を受けるというのはその事だ。やる気でやったというだけの事では大した事ではない、誰でもやる。例えばそれを例を言うて、恵美子さんとか、直子達でも、昨日から無期限断食に入っとる。
やり気でやるからやれるんだと。あのような女でも子供でも。けれども「あんた、今日から断食に入らんの」と言われてからは、中々きつい。けれども親先生が仰ったからというて、やる気になる。より良いものを頂く事の為にです、やると言う事になったら、勿論そこに意義もでてくると同じにです。それが徳を受けるあり方だという風に頂いてね。今日は、本当に私も、取り合わせんじゃないけれども、私もそれを何回もの仕事振りを見てね、私も泣こうごたると言うのは、私の実感であった。
けれどもやっぱり、それを押してでもやって貰わなきゃならない、為にはしよう事なしに泣く泣くやったんじゃいけん所をです。今日は神ながらな、タイミングの中に中心になる人と、そんな話し合いが出来て、何かほんなこっですねと、より美しいもの麗しいものを作るために、やり変えやり直しをやってるんだと言う様な、場面と今朝の御理解と、今博道先生が言うその所を、思い合わせて頂くわけですけれどね。
言われては中々特に職人さんなんかは、やり直しと言う事は、もう本当に嫌らしいですよね。けれどもそれがより良いものを作ると言う事になる時にです。そこのやり直しの意義が、ここに出てくると言う訳です。例えば今日は企画委員会で御座いますけれども。まぁ様々に教義がされ、繰り返し繰り返しの話のようですけれども、繰り返し話させて頂いておるうちに、本当な事が記念祭を目指して、出来てくるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。